2012年2月6日月曜日

Reinhold Messner Der7.Grad


Reinhold Messner Der7.Grad Extermstes Bergesteigen

 クライマーというものは、緊張努力や気力集中で不安によってかもし出されたストレスのおかげで眼が覚める。自分の周囲や、さらにその先の世界が見えてくる。クライマーには、いろいろな事物が、たとえば冥想によっても達せられるように、明快に、生き生きとした心眼で新しく眺められるようになる。しかし、とくに自分自身というものと、世界との新しい関係が見えるようになり、限られた時間の内でではあるが、拡大された観想ともいうべき状態のなかにおかれるのである。
 登山家というものは、ぼくの経験によれば、このような体験を自分自身の能力限界に達したときにだけ識ることができるのだと思う。このような状態は先鋭登山家だけのものであるかというと、そうではない。たとえ、第二級の世界になじんでいる者であろうと、第六級の世界で行動する者であろうと、誰もがこの体験を自分のものにすることができるのだ。もちろん、優れた技量の持主は、この精神的に深められた観想の境地に達するために、他のひとよりも長い、より困難なルートを攀じなければならない。このような境地への願いが、能力水準を絶えず引き上げてやまないのである。
 しかしまた、なにかを成し遂げようという思考と成果がなによりも重要なものであり、この思考と成果がつぎからつぎへと、より偉大な、一層困難な登攀へとうながすのである。成果のある行動にのみ悦びを覚えるというのでは、《成果》にもスポーツ登攀の諸傾向に対する共同責任ありというべきであろう。成果が挙がらなければ行動意欲も減退することになる。(第七級)

 山登りは、ぼくにとって、《当り前の》人生でもなければ《本来の》人生でもない。むしろ、人生からはみ出たものであって、目下ぼくをそれにすっかり没頭させている一時的な活動だといえるだろう。ぼくは山登りを道徳的に果たすべき義務とも、肉体的に必要なこととも感じない。だが、いざ止めろと言われても、そう簡単に止められそうもない。
 途方もない、気違いじみた山行であっても、道徳のことも肉体のこともぬきにして、ぼくに打算なんか超越させ、感激させ、明るい気分にさせてくれることができるのだ。

 登山は、道徳的な機能、叡智と愚行、善と悪といったものとはおよそ無縁のものである。

 岩登りのリズムとハーモニーのなかに、人間の体は高度の表現能力を見出す。その存在のしるしを見出すのである。
 登山というものは、いかなる文化とも世界観ともつながりを持たない。いかなる特殊な肉体的な前提条件とも、財政上の豊かさともかかわりをもたない。山登りはただ始めさえすればよいものなのである。(奇妙な顔)

 山が人生を容易にしてくれるということはないが、山は、人生に耐えてゆけるように助けてくれるのだ。ぼくらをとりまく外的な状況をとおして、山々は抵抗する力と冷静な心構えとを培ってくれるのである――内省へのきっかけを与え、ぼくらが、すべての人生の叡智へ到達するために必要な心のバランスをみつけて、これを保つのを手伝ってくれるのである。

 山々は公明正大なものだ。やれ階級だとか、やれ難しさだとか、あるいは、社会的地位が高いとか低いとか、弁舌がさわやかであるとかないとか、そんなことには関係なく、分け与えるのだ。誰でも自分が山々に向かって差し出しただけのものを山々から受け取るのである。山々はディレッティシマの征服者に与えるより多くのものをハイカーに与えることができるのだ。これは人それぞれの心のもちかたによるのである。
 岩壁の難易度はそれほど大事なものではない。第三級が自分の能力限界であるならば、第三級にとどまるべきである。無数の第三級ルートで、同じように数え切れない第六級ルートでほかの人が味わうと同じように山々を体験することができるのだ。誰もが、自分にできることとできないことをわきまえていなければならない。それによって自分の行動を律する必要がある。だから、難易度というものは、能力の段階を示す表ではなく、それに従って誰もが正しい道を選べる基準表とも言うべきものだろう。もちろんここでよく考えなければならないのは、登山行為のもつ秘密はその限界にあるということだ。この限界を越えてもいけないし、限界の手前であってもいけないのだ。怠惰と臆病がむくわれることはない。また、猪突猛進はしばしば死をもって罰されるのである。(チンクヴェ・トッリでのガイド)
 
 乗り越えるのが極めて困難な何メートルかの岩場に直面したとき、まずよく岩を眺め、一つ一つの動作を前もって考えておき、ひとまず、頭のなかでひと通りやってみる。その上で、腕の力を抜いて冷静に、だが、再び広い足場に靴の底を載せることができるところまで一気呵成に攀じ登らなければならない。絶対にひとところに立ち停まらないことが、こつである。いったん発揮したスピードは、乗り越えてしまうまで落とさないことである。これで、体力の消耗も少ないし、短い岩場ではごく小さな手懸りで体を支えることができるのである。
 あっちをやってみたり、こっちをやってみたりして、指の力をひどく消費し、堕ちることもまれではないようなやり方よりも、こうして、頭のなかでよく考えてから、やってみる方がよいと思う。もちろん、豊かな経験と、よく訓練した眼が必要なことは言うまでもない。総じて岩登りにあって大事なことは、力ではなく、むしろ唯一無二の正しいルートをいかにして選び、そしてこのルートを正しく登るかということである。このことは、登攀ルート全体についても言えることで、さらに、数メートルの岩場について細かい点に触れれば、手懸りにもっとも有利な荷重と重量の配分を行なうことである。さらに遠慮なく言わせていただくなら、じつに多くのクライマーたちが、下から岩場を正しく判断できないため、いちばん易しい理想的なルートを見つけられず、第四級のルートに取りつきながら、第五級のルートを登らされることになるのだ。このようなことは、第六級よりも、ずっと易しい難易度において起こることである。易しいルートでは、ちょっと難しくなるだけでもうどうにもならなくなってくるからである。(ひと握りの小石)